なんでもかんでも腐してしまう私がいやだ。

特に、人に対して「青いなあ」とか思う自分がイヤ。
人様のことを笑えない状況なのに、どうにもそう思ってしまう。
泥沼に嵌まる人間を指差して嘲って、自分の足元が見えてない人間なのがなんとも駄目。
しかも「泥沼に嵌まる人間」に実は私も含まれていて、救えない。
自分も他人も否定して何が残るというのか、うん分からん。というかそれって分裂してますがな。つーかこのエントリ上のエントリと矛盾してる。
ともかく、
それならいっそ、他人を馬鹿にしきるか、自分を馬鹿にしきるのか、のどちらかの方が行動の指針がぶれないという点ではましだ。
ただこれは、自分か他人のどちらかを奴隷にすることでもある、私はそれをしたくない。
一番いいのは自分も他人も肯定出来ることだと分かってる、でもそれが出来ない。
自分と他人の区別をつけることが難しいから、出来ない。
「私が私をどう思っているのか」と「他人が私をどう思っているのか」が区別し切れていないのだ。
だから「私が嫌い」と「他人が嫌い」がごっちゃになってしまう。
これは苦しいし、ぶれる。重要なことを決定するときに価値判断が出来ない。

しかもこれはループである。つまり
・私が嫌いな私が嫌いな私がきら(以下略
★どうしましょう
1、システムに外的要因を加える。しばしば外圧。つまりコントロール不能
2、何がしかがんばる、成果をあげる。成功するかもしれない(しないかもしれない)
3、あきらめる。時が解決するさ。(しないかもしれない)

とりあえず2をした後に考えよう。そうしよう。